商品名はそのまま「魔法のフライパン」。この“魔法”を待ちわびる主婦が全国に何万人もいる。今、魔法のフライパンを手にするには、商品の注文から3年近くも待たなければならない状態だという。
父親の代から、鉄鋳物で機械部品を製造する工場を営んでいた。錦見泰郎が会社を継いだのは高校卒業後の1981年だ。バブル崩壊後、元請けから厳しい値下げ要求が突きつけられるのは、日常茶飯事のことだった。「代わりはいくらでもいる」。心ないその一言が、本当に悔しかった。
「他より3倍難しいことをするか、3分の1の価格で作るか」。生き残っていくための選択肢は限られている。錦見さんは「3倍難しいこと」に挑もうと決めた。
本業の機械部品を製造し終えた後の工場で、錦見さんが取り組み始めたのがフライパンの製造だった。「熱伝導が早く、冷めにくい」「温度がムラになりにくい」「焦げつきにくい」。鉄鋳物はフライパンに適した特性を併せ持っている。ただ、大きな難点も抱えていた。「重さ」である。
鉄鋳物の代表といえば、岩手県特産の南部鉄器。1度でも手にしたことのある方ならわかるだろう。小さな鉄瓶でも相当の重さを感じる。鉄瓶ならまだしも、フライパンは主婦が日常的に使い、振ったり持ち上げたりしなければならないものだ。抵抗を感じることなく使える重量にしなければならない。
どこまで軽くすることができるのか。これは「どこまで薄くすることができるか」ということを意味する。錦見さんの「究極の薄さの鉄鋳物」への挑戦がはじまった。
完成のメドさえ立たない中、
何年も試行錯誤を繰り返す。
薄さ1.5ミリ。鉄鋳物の常識を覆した。持つととにかく軽い。鋳物だから焦げ付きにくく、熱が均等に素早く通るため、調理も早くうまみを逃がさない。
鉄鋳物は、鉄を鋳型に流し込んで造られる。よって薄さの追求は不可能と言われてきた。フライパン用の鋳型の隙間はわずか数ミリ。普通であれば「常識外」である。鋳型のどこから鉄を流し込むか。鉄がどのように鋳型の中を流れ込んでいくのか……「鉄鋳物の気持ちになってみればいいんだ」。錦見さんは、常識の向こう側を目指し試行錯誤を繰り返した。
ただ、鉄鋳物の気持ちには、なかなか届かない。鉄が均一に流れず、何回やっても、ところどころが薄くなったり、穴が開いたりした。無事に流れ込んだと思っても、今度はもろくて使いものにならなかった。
鉄鋳物は、90%以上が鉄、残りに炭素・シリコン・マンガンなどをどう配合するかで、強度や硬度などの性質が変わる。配合が0.1%変わるだけで、出来上がりが大きく異なることもある。
鋳型に均一に流れ、さらに十分な強度と硬度を保ちながら、「薄さ」を実現する。開発をスタートさせてから、何年もの月日が流れていく。答えが見えず、完成のメドさえ立たない中、毎晩のように工場にこもる日々が続いた。
研磨の作業はすべて手作業。
きっかけは「失敗」だった。ある日、材料の配分を大幅に間違えた。でも、捨ててしまうのはもったいない。そのまま鋳型に流し込んでみた。
鋳型を壊して、鉄鋳物を検証してみる。薄さも均一。硬度もある。思い描いていたフライパンに近い製品が出来上がっていた。
開発を始めて8年が過ぎた01年。ついに鉄鋳物のフライパンに「魔法」がかかった。薄さわずか1.5ミリ。重さは外径26センチで980グラム。主婦でも簡単に使える重さのフライパンが完成したのだ。
試作品をホテルのシェフに持ち込み、使ってもらった。「革命的なフライパンだ」「売れるよ」と太鼓判を押してくれた。シェフからシェフへと紹介を受け、地道に全国のホテルレストランへ売り歩き続けた。
その後は、実際に使った主婦から主婦への口コミと、ネットの普及に伴い、「魔法のフライパン」の評判が広がっていく。いくつかのメディアが取り上げてくれるようにもなった。「何年待ってでもほしい」という主婦からの注文が殺到するようになる。
「薄さを追求したことが結果、デザイン性や機能美にも繋がった」と錦見社長。
今年2月、ドイツで開かれた世界最大の消費財見本市「アンビエンテ」にフライパンを出品した。アメリカ、サウジアラビア、インド、スウェーデンなど、各国のバイヤーから契約の申し出があった。
今、フライパンは一つひとつが手作業で作られている。次なるチャレンジは「量産化」だ。その日に向けて、自動製造ラインの準備を着々と進めている。
でも「金儲けのための量産化じゃない」と錦見さんはいう。一人でも多くの人に使ってほしい。10年以上の歳月をかけて完成させた「魔法」を、できるだけたくさんの人に体感してほしいという思いからだ。
錦見さんの言葉に嘘はない。金だけのためなら、できるかできないかと10年以上も苦心することなく、とっくに開発を止めているはずだ。
思えば、ものづくりに心血を注ぐエンジニアや職人が生み出す「魔法」のおかけで、日本は人々の暮らしを、社会を変えてきた。コストダウンだけがすべてじゃない。「誰もやっていないことをやる」「まだ世の中にないものをつくりたい」。情熱と意地と、工夫と探究心があれば、中小企業だってまだまだ「魔法」が生み出せる。
日本の製造業が絶やしてはならない“原点"が、魔法のフライパンには宿っている。
錦見鋳造株式会社
〒498-0811 三重県桑名郡木曽岬町大字栄262番地
事業内容/「魔法のフライパン」の製造・販売
従業員数/8名